*多様化する現代社会の中で最も必要とされるのが哲学である事に気づかれている諸氏も多い事と思います。政治も経済もそして今日を共に生きている全ての市民も、これから先何を最重要なイッシューとして重んじ、社会を見つめ、公平で揺るぎのない世の中を実現して行くには、根幹となる論理がどうしても必要な事を。
情報が氾濫し、選択肢が膨大な量として眼前に展開され、求めれば即座に与えれられ得る今日こそ、ゆるぎの無い選択眼を持って情報の渦に巻き込まれず、如何に正しい選択をして行くかが最大の課題であることは言うまでもありません。
哲学は20世紀中庸に於いて一旦収束してしまいました。サルトル(1905年~1980年)が「存在と無」の中で「実存が本質に先立つ」として神の存在を全否定し、アンガージュマン(今の自分を取り巻く状況から新たな現実へと自己を解放する)を社会参加の実践を通じて証明しようと試みました。そして「存在と無」に続く主著「弁証法的理性批判」の中でマルクス主義を取り入れ、史的唯物論を再構成しようとしました。ニーチェからキエルケゴール、そしてサルトルへと繋がって来た実存主義への道はここで頓挫してしまいます。
1965年だったと記憶していますが、早稲田の文学部講堂で行われたサルトルの講演会は熱気に満ちたものでした。当時の我々学生は入学と同時にマルクスの「資本論」を読む事が当然とされ、マルクスのアンガージュマンとサルトルの知によって完全武装をし、それによって社会には真の革命が齎されると信じて止まなかった時代でした。しかしこの理論武装には大きな間違いが有りました。その最大の欠点はマルクス主義そのものです。マルクスは自らの生活の為には何もせず、エンゲルスの庇護の元で自身の発想した思いを理論武装し、幾重にも塗り重ね上げて行っただけのものであり、その根源に「生きる」という問いに応え得るものは何も在りませんでした。そこに在るのは、ただ資本家と労働者との間の主権を握る為の階級闘争でしかなかったのです。サルトルがマルクスを取り入れたが為に、ソクラテス以来続いてきた西洋における純粋哲学は崩壊してしまいました。その後イギリスのコリン・ウイルソンがアウトサイダー理論(世界を導いて来たのは夫々の時代を構成する一般大衆や支配・被支配を安閑と享受するインサイダーではなく、社会から逸脱したアウトサイダーである)を提唱し注目される事もありましたが、やがて彼もその論理を更に発展させる事も出来ずに、オカルティックな方向へと遊離して行ってしまいました。この論理には多くの歴史的真実が含まれ十分に期待の持てるものでしたが、この方向転換には随分と落胆したものです。
今日、失われた哲学は、知識人に限らず、多くの人々を迷妄の世界へと押しやり、眼前に展開される変化に押し流され、人間の遺伝子に組み込まれた欲望という名の電車に飲み込まれてしまっています。本質的な「知」がテクノロジーによってごまかされ、透明性を失った「理性」が隅に追いやられようとしています。政治も経済も本来土台として持っていなければならない哲学を見失い、人々の本質的欲求の過多だけでその方向性が豹変する時代と成り果てています。そこには平和共存等と云った信念は何処にも無く、地球環境を破壊し続ける醜い人類の姿があるだけです。
地球が宇宙に存在するための必然として、1億年以上の年月をかけて地表から地中へと仕舞い込んだ有害物質(石炭、石油、天然ガス、メタン、シェールガス、そして核、等)を、人類は再び地表へと絞り出し、かけがいのないこの地球を汚染し破壊し続けています。人間は宇宙の何処にでも住めると思っているかのように。果たして人類は我々の祖先とされるアウストラロピテクス・アファレンシスよりも長くこの地上に存在出来るでしょうか。人類は46億年を経て来た地球を僅か200年ですっかり汚染してしまいました。上空にはCO2が覆い、海中には石油からの精製物質が溢れ、オゾン層を傷つけ、地球を浄化してくれる森林を未だ破壊し続けています。
これらの人類のムーブメントそのものの原因が、「人間は何故、何の為に生きているのか」という哲学的回答を未だ持ち得ていないという何よりの証しと云えます。その答えを見いだせない・あるいは敢えて見ようとしていない原因は、多くの宗教がそうであるように、人間を特別な存在として考えて来たことです。ホモサピエンスは特別な存在でも何でもありません。今日地球上に存在している他の生命達と同じように進化してきただけなのです。ただ傑出している事は、高度な知能を持ち得たというただそれだけなのです。そのたまたま傑出した脳を持った我々ホモ・サピエンスが為すべき事は、より多くの生命がゆったりと生存出来る環境を作り維持する事でしかありません。人類そのものがより長くこの地球上で行き残るには、豊かな環境をより長くサスティナブルにするしかありません。そして勿論格差を生まない平和共存が最低の条件だという事も判るはずです。
「人が何故生きるか」という結論はかなり明確に見えて来ました。人間の個の命は僅かな時間しか与えられていません。それが生命の当然の成り立ちだからです。その与えられた時間の中ですべき事は、他の人間に対して必要とされる生き方です。人類は個の命を・つまり我々そのものを生み出してくれました。我々が当然なすべきは、「その人類をより長くこの地上に存続させる事であり、必然的に同時に生きるすべての生命を守る」という事です。
「この世は神が創った」等と云う言葉を鵜呑みにしている限り、真実は見えて来ません。我々個々の存在は卑小なものに過ぎません。しかしその小さな、頼りない命が存在しなければ、この世界は成り立って行かないのです。人類が誕生してきた道程は約束されたものでは決してありませんでした。カンブリア爆発に見るように、多様な生命が40数億年を経てこの地球上に現れました。そして多様な生命の中で人類に繋がる生命体も生き残って来ました。
エディアカラの生物群からカンブリア爆発に至る経緯は、ダーウイン自身が云っている様に、進化論などではとても説明できるものではありませんでした。人類へと続く道のりは何一つ約束されたものではなく、たまたまそうなったとしか説明がつかない・・つまり決して約束された当然の帰結では無かったのです。言い換えればこれからの私たち人類の将来についても約束されたものは何一つありません。その時代その時代を生きる人々や動植物や昆虫等すべての生命体が築いて行くより他にその選択肢はないのです。
5/23/2013 笹岡 哲